№388|大リサイクル時代に急浮上した「ゴミ分別は不要」説

「当たり前」という袋に入れられた私たちのゴミへの考え方

Published on 2021.01.20

TEXT BY: Sachi Yamaguchi


私たちが行っているゴミの分別は本当に効果をもたらしているのか?

近年では、世界的にプラスチックの削減や再利用に力を入れる動きが出ている。つい最近の日本においても、その動きは私たちの日常生活に影響を与えた。例えば、プラスチック製レジ袋の有料化や、プラスチック製ストローの廃止による紙ストローの登場などが挙げられる。

もちろん、日本におけるプラスチックゴミへの対応はそれだけではない。
私たちが日常的に行っている「ゴミの分別」もその一つである。

手順としては、まず地域指定のゴミ袋を購入し、そこに可燃、不燃、プラスチック、ペットボトル…と分別したゴミを入れ、指定の曜日に出す。また、新聞紙や段ボールなどの特定のゴミは紐で縛り、特定の日に出す。

このような日本における「ゴミの分別」の細かさは、日本に住む外国人も困惑するほど。もっとも、日常的にゴミの分別を行っている私たち日本人の中でも、多くの手順を踏んで行うゴミの分別に辟易している人は多いだろう。

その中で、行われているゴミの分別は果たして本当に必要なのだろうか、とする「ゴミ分別不要説」が浮上している。工学者であり、環境問題に関する提言も行っている武田邦彦氏が唱えたこの説からは、現在の日本のリサイクルの実情とも言える背景が見えてくる。

日本のプラスチックゴミのリサイクル事情を紐解いてみる

ゴミ分別不要説について触れる前に、まず日本のプラスチックゴミのリサイクル事情を紐解いて考えたい。地域にもよるが、日本ではプラスチックゴミを厳密に分別することが求められている場合が今も多く存在する。

そうして各家庭で分別され、出されたプラスチックゴミは当番に調べられ、トラックで集められる。私たちが実際に知っているプラスチックゴミの行方としては、ここまでであることが多いのではないだろうか。

その先で、プラスチックゴミがどのように処理がなされ、またリサイクルされているのかの実態はわからないままである。私たちはどこか想像の中で、私たちが家庭で分別したプラスチックゴミはきちんとリサイクルされていると考えている。

確かに、日本のプラスチックゴミのリサイクル率は84%と発表されており、この数字は世界からも認められている。

しかし、リサイクルと言っても、私たちが一番に想像するような、新しい製品に生まれ変わったりするような形ではない。実は、本当の「リサイクル」には、私たちが想像するリサイクルとはまた違った処理方法があり、私たちが分別したゴミのほとんどはその方法で処理されていると言われている。

リサイクルと一口に言っても、その中に様々な種類がある。

一つは、「マテリアルリサイクル」と呼ばれるもので、これは、モノからモノに生まれ変わるという、私たちが想像する「リサイクル」に最も近いリサイクル方法だ。このマテリアルリサイクルは、日本のリサイクルの中の23%を占めている。

さらに、来年2021年の1月からは、その中国が海外からのゴミの輸入を全面的に禁止すると発表しており、今まで中国に頼っていた分のゴミが行き場を失うことになることが予想される。

もう一つのリサイクル方法は、「ケミカルリサイクル」と呼ばれるものである。これは、選別、洗浄などの処理がなされた廃プラスチックを、原料または中間原料の状態まで化学分解し、そこからまたプラスチックを生産するというもの。

このリサイクル方法は効率的だが、大型な設備への投資や場所が必要となる点から、コストがかかるという不利な側面がある。そうした理由が重なり、現状ではこのリサイクル方法は全体のリサイクルのわずか4%しか占めていない。

この2つのリサイクル方法を除いた約56%、つまり半分以上を占めているのは、「サーマルリサイクル」と呼ばれるリサイクル方法である。
この「サーマルリサイクル」は、廃プラスチックを焼却することで発生する熱量をエネルギーとして固形燃料や発電、熱利用焼却などに利用する方法でリサイクルする方法だ。

このリサイクル方法については賛否両論の声があるが、エネルギー回収率が低い側面も指摘されており、最善策とは言い切れない。実際に、欧米ではこの方法は「リサイクル」としてあまり良い評価を受けていないようだ。

このように、日本のリサイクル事情を紐解くと、全体の約56%は廃プラスチックを焼却してリサイクルを行っていると言える。

さらに、2つ目に紹介した「ケミカルリサイクル」には物質循環以外にも様々な手法があり、石炭の代わりに廃プラスチックを炉に投入して燃やすことでリサイクルを行う場合もある。つまり、サーマルリサイクルだけではなく、ケミカルリサイクルの一部においても、廃プラスチックが炉で燃やされていると言える。

この視点から、私たちがリサイクルのために分別した廃プラスチックのほとんどが炉で燃やされているのではないか、という指摘も存在する。

現在のリサイクル方法のために、分別は本当に必要なのか?

さらに、ゴミ分別不要説を唱える武田氏によれば、とあるリサイクル工場では分別されたゴミをそのまま焼却場や工場の裏で焼却しているケースなどもあったと言う。

こうした点から見ると、私たちが日頃注意を払いながら行っている分別は、本当に必要なのだろうか、と言う疑問が上がってくる。

そもそも、簡単に「リサイクル」と言えども、私たちが分別したゴミをリサイクルするには、多くの手間がかかっている。

まず、分別されたものを「運び」、分別して集めたモノから「新しい商品を作る」には、多くの資源やエネルギーを使用する。それと比べて、分別を行わずに、1台のトラックでゴミを運んでしまう方が資源やエネルギーを使わず、安く済む。この点においても、この説においては私たちがゴミの分別をする必要性が疑われる。

さらに、私たちが使い終え、分別したモノは汚く、ほとんどが何か混じってしまっている。一見綺麗に見えるペットボトルにおいても、人が飲んだあとのものであるため、しっかりと洗浄し、殺菌する手間がかかり、さらに同じペットボトルであってもサイズや色が様々であるため、それを細かく分けるにも手間がかかる。

もし、それを分けて新しいものにリサイクルできたとしても、衛生面での問題は拭きれない。実際に、ビール瓶のリサイクルにおいては、カナダで心臓麻痺が急増したり、イギリスで鼻に穴が開く病気が流行したことがあると言う。ペットボトルにチューインガムが入り込んでいたり、農薬入れに使われていた場合も多いからである。それは洗って取れるものもあれば、洗ったとしても次の人が飲むには衛生面での問題があることも多いことが背景として挙げられる。

こうなると、リサイクルの可能性自体が疑わしくなり、その疑わしいリサイクルのために私たちが日頃行っているゴミの分別も必要であるかどうか怪しい、というのがこの説である。

レジ袋の有料化は無駄だった? 

こうした背景を見ていくと、武田氏によれば、そのレジ袋の有料化も無駄である可能性があると言う。

レジ袋は、石油から作る「ポリエチレン」と呼ばれる物質からできている。石油は、動物の死骸が腐敗したものであるため、人間の生活に都合の良いように作られたものではなく、ごく自然なものを使用していると言える。

反対に、私たちがレジ袋の代わりとして使用するようになったエコバッグには、それこそ人間の生活に都合の良いように作られたポリエステルが使用されているため、こちらを節約する方が環境にやさしいと言える。

また、武田氏によれば、有料化されたレジ袋は万引きの予防にもなり、数回使うと破れるほどの薄いものであるため、石油をあまり消費することがないと言われている。さらに、私たちがゴミをまとめるものに使われたりするなど、繰り返し使えるという点でも有能だったと言うことができるという。

私たちの「習慣」や「常識」を再考すると意外なことが見えてくる

今回挙げたゴミ分別不要説、そしてそこから見た日本のリサイクル事情は、あくまで一説に過ぎず、一概に真実か否かと決めることは困難である。

私たちにとっては普段行っているゴミの分別は大変面倒なものであるが、それと同時に当たり前の「慣習」であり、「常識」でもある。それらに対して「本当に必要なのか」という疑問を持ち、疑うことで、ゴミの分別は不要かもしれないという新たな視点を生んでいるのが、このゴミ分別不要説であると言える。

かと言って、この説は「ゴミ分別を無くすこと」を主張しているのではなく、「本当に必要なのか」と本質に立ち返ることで、より環境と私たちにとってより良い未来を築くための懐疑的な姿勢を提示していると言えるだろう。

もちろん、中には自分が信じてきた慣習や意見に固執したり、「当たり前だ」と思い込んだり、排他的になることもあるだろう。それは至って普通のことだ。誰だって、自分の信じていることを疑ったり、実は間違いだったと知ることは怖い。

しかし、そこからは何も生まれない。ましてや、私たちの未来をより良くするための最善手ともなり得ないだろう。

ゴミの分別であっても、私たちのゴミへの考え方を「当たり前」という袋にまとめ、一様にしてきたと言える。
今私たちに必要なのは、その袋から脱し、新たな気付きを得ることだ。

今回の記事を執筆するにあたって参照したデータは以下の通りだ。ぜひ自分自身の目で確かめて、ゴミの分別への考えを深めてみて欲しい。

 (TEXT:Sachi Yamaguchi)

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