“人間の悩みはすべて対人関係の悩みである”
人と会う機会がめっきり減ってしまったコロナ禍は、人間関係を整理できる良い機会でもあると思われたが、同時に人間関係に関する悩みを新たに増やしている機会にもなっている。
例えば、SNSがきっかけで感じる新型コロナに対する危機意識の違いや、オンラインでの飲み会などに対する疲れなど、こうしたコロナ禍だからこそ感じる人間関係の煩わしさに日々苛まれてしまう人も少なくないという。
こうした点から見ても、社会で生きる上での人間関係の悩みは、いくら物理的に人と会う機会が減ったとしても尽きることはないと言える。アルフレッド・アドラーも言っていたように、対人関係の悩みが人間の悩みの根源だとするならば、私たちはその場しのぎの対処法ではない根本的な解決を求めるべきだろう。
ヒントとしての「愛するということ」
先日、いくつかの書店を回った際に、エーリッヒ・フロム箸の『愛するということ』という本が置かれているのを何度か見かけた。
『愛するということ』は、1956年に出版されてから60年以上もベストセラーとして読み継がれてきた名著で、私の愛読書のひとつでもある。今もそれぞれの書店の目立つところに置かれており、名著としての立ち位置は今も変わらないようだ。
ドイツの社会心理学、精神分析、哲学の研究者であったフロムは、本著において、とても曖昧でロマンティックなイメージを持つことの多い「愛」というものを、とても理論的に説明している。
というのも、彼は「愛」の本質を、私たちが求めがちな「愛されること」ではなく、「愛すること」であるとしている。その上で、「愛」を習練が必要な「技術」と捉え、要素として「与えること」、そして「配慮、責任、尊重、知」を含んでいると言う。
また、彼が取り上げている愛の対象は、異性間は勿論、親子・兄弟・母性・自己・神と様々だ。故に、ただ単なる恋愛の至難書とは違い、根本的に「愛」とは何かについて、様々な関係性を例に挙げながら述べている。
愛=技術=芸術
こうした本の中身は勿論だが、私がここで注目したいのはタイトルである。日本語のタイトルは「愛するということ」だが、原題では「THE ART OF LOVING」だ。本著におけるARTとは「技術」という意味であるため、これを直訳すると、「愛するということの技術」となる。
だが、ご存知の通り、ARTという言葉には「芸術」という意味もある。かなり簡単に言ってしまえば、愛は「技術」であり、「技術」は「芸術」ということだろうか。
「社交」も技術であり、芸術的な遊戯である
これを考察している際に思い出したのが、私の好きな社会学者であるゲオルク・ジンメルの「社交」についての考え方だ。現代で「社交」と聞くと、少し煩わしいような、意味のないようなものに感じられるかもしれない。しかし、ジンメルにとって社交とは「関係そのものを楽しむ関係」であり、同時に「芸術」でもあった。
例えば、ある社交パーティで、初対面の男女が出会ったとする。当たり前に、お互いは相手のことについて何も知らないため、話す時も相手の気分を害さないように充分に配慮し、かつお互いの氏素性を軽々しく、ベラベラと話すような野暮なことはしない。そしてパーティが終わった後は深い関係になることもなくそのまま別れ、帰路につく。
これは、一見ただの上辺の付き合いに見えるかもしれないが、こうしたその場限りの関係を楽しむという行為は、お互いの充分な配慮と氏素性は明かさないままでその場の関係を楽しむ、という高度な「技術」が必要だ。ジンメルは、この技術が必要な社交を「芸術的な遊戯」と捉えていた。つまり、社交はとてもアーティスティックな営みだとも言えるのだ。
こう見ると、私たちが時に煩わしいと考えてしまいがちな人間関係の中のコミュニケーションの捉え方は変わってくる。例えば、初対面の人と話さなければいけないシチュエーションは、仮面を被った上辺だけの会話が求められるため、面倒臭いイメージを持っている人も多いだろう。
しかし、ジンメルの視点で考えるとどうだろうか。仮面をつけた状態であれど、自分の個人的な自慢話や深刻な悩みといった話を一切しないなど、相手への充分な配慮をすることが「社交」なのだ。それはつまり、お互いにただのひとりの人間として、平等な関係でその場限りの対話と関係性そのものを楽しむことになる。
反対に言えば、充分な「配慮」という高度な技術がめられる芸術的な遊戯だからこそ、家族であっても友人であっても恋人であっても、良好な関係を紡ぐことは非常に難しいと言えるのだろう。
「能率的」が正義の私たちに欠けているもの
彼らのこうした考え方は、凝り固まった私たちの考え方を根本からほぐし、重く積もった悩みを軽くしてくれるヒントになり得るはずだ。
物事を能率的に考えがちな現代社会では、フロムやジンメルのように、物事の根本に立ち返って考えを深めることは非合理的と感じるかもしれない。
しかし、その一見非能率的に見えるようなアプローチは、今の私たちに欠けている長期的な合理性なのだろう。
(TEXT:Sachi Yamaguchi)